昨日はmurase yuta(@murase_yuta)さんの「削って並べて道標」でした。
フルオート射撃が可能な割り箸鉄砲を作れば、クラスの人気者になれること請け合いだが、残念ながら割り箸が家にない。よって書き物をする。書き物(辺見庸『永遠の不服従のために』から「不敬」及び「仮構」)についての書き物だが、書評ではない。あらすじはだいぶ近い。
月が月であるかを疑う男がいた。当たり前だが皆は疑いなくそれを月だというので、しまいには彼は月が月であることを疑っている自分をも疑っていた。別して狂人ではないし、頭も切れるその男が、なんとかという作家か思想家か狂人かよくわからないが公務員であることはまちがいない人の言葉を引用したあとで言うことには、「あれが月でないとしたら、もはや月でないあれを<月>と呼ぶのは怠慢なのだ。だがあれが月でないとなれば、きっとがっかりするよ。だけどあれは奇妙な色をした、置き忘れられた提灯かもしれないんだ」いや、やっぱり狂人かもしれないな。
天には月ではないのに<月>と呼ばれるものがあり、<月>を囲む風景がつくられていく。
その名に値しなくなったものをその名で呼ばなくなることで、失望は確固たるものになる。失望することへの恐れが、月でないものを<月>と呼ぶ怠慢を生み出す。
つくられた風景の中、とうにくたばったものをさながら存命しているかのように扱い、木っ端微塵に破砕されておがくずの山になった木を守ろうとしたりする倒錯した努力が整然と、勤勉に、計画的になされる。それもほとんど例外なく善意に基づいて。リテラシーなるものは、いつもそうであるように、ある体系において記述し理解するものであるから、この場合はもちろんつくられた風景を破綻させず維持することを意味する。滔々としゃべる男を見て、此奴はやっぱりどうかしているのだろうなと思いながら、彼の主張を反芻する。本当にそれだけなのか。
あれが月ではなくこの男が言ったように「奇妙な色をした、置き忘れられた提灯」だとしたら、この男は確かに月がないことに失望するだろうけど、それを聞いた私も失望するだろう。誰も彼も失望して、それどころか彼に反感を持ち、この不逞の輩を罰しようとするかもしれない。
「月に対する君の不遜な物言い、不敬行為に対する私達の懲罰が、君は結局一番恐ろしいんじゃないかね」と尋ねると、彼は「そういえなくもない」と言うと私の目を真っ直ぐ見据え、瞬きひとつせずこう付け加えた。
「しかし不遜にして不敬な者どもを痛めつけるあらゆるものの根源を追い続ければ、最後には私自身に帰着するのだ」
結局、ありゃあ月なのかねえ。
そこでお尋ねしますが、あなたがいま、天皇ないし皇族の身体に関わるテーマを小説に書いたとしたら、その掲載を引き受ける雑誌、あるいは刊行を引き受ける出版社があるでしょうか?(辺見庸『永遠の不服従のために』)
明日は日下部あるるさんです。
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